山奥の日々雑音 〜イナカノオト〜

ゆっくりスローライフ ときどき ノスタルジー やっと帰れた田舎のこと

イナカインキョの音楽徒然  元パンク~ニューウェーブ少年だった当時を振り返る その1 (1977~1979) 

髪ツンツン。そんな時代もありましたね~

 

 

歌は世につれ、世も歌につれ。

 

一瞬のうちに過ぎ去る、青春の日々。

そんな青春の一ページを彩ってくれた、様々な音楽たち。

  

今回は若かりし頃、心惹かれた音楽について書きます。

ヤギ小屋の後にこの話はちょっと振幅ありすぎの気もしますけど。。。

 

 

誰にでもある、愛おしくも、ほろ苦い思い出の日々。

青かったなあ~。

個人的な忘備録に過ぎない戯言にしかならないとは思いますが、日本のストリートミュージックの黎明期にライブに行きまくった客として、観ていた、聴いていた当時のシーンの現場の話なんかも出てきますので、ちょっとお付き合いください。。。

 

 

パンクスになりたかったんだよ~(この場合、一人でもパンクスという)

 

 

その昔、大都会の片隅に革ジャンの匂いとともに騒々しく蠢き始めた、パンクという音楽にイナカノインキョは何故か心惹かれたのでした。

 

同じく黒づくめなんですが、当時は革ジャンといえば、リーゼントでバッチリ決めたCAROLがメジャー、パンクスは短髪ツンツンで超マイナーな存在でした。

 

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デビュー当時のClash。かっこいいなぁ~ ツンツンしてますね。

 

 

と、その前に、パンクに出会う前の音楽の嗜好遍歴はというと、、、、

 

 

中学一年生の頃から洋楽を聴き始めました(母の影響強し)。

 

サイモンとガーファンクルカーペンターズ(ファンクラブ入ってた)、ジョン・デンバー(中学さぼって武道館まで一人で観に行ったっけ)、アメリカのヒットチャートのポップスから、パープル、ツェッペリン、GFR(わかります~?)などのハードロックに入って、プログレへ。

当時の音楽ファンは、歌謡曲ファンか洋楽ファンか、というざっくりした分かれ方でしたので、ここまではかなり普通の道筋です。

そして、なよなよっとクロスオーバー(いわゆるフュージョンです)やジャズを聴きかじりしていた頃、出会ってしまったのです、パンクに。

 

なんか自分でも高校生でジャズなんて老成してしまったなあとか、テクニック至上主義の音楽に飽き飽きしてたんでしょうね。

まあ、当時は洋楽ブームだし、高校生でもジャズ聴いてる背伸びした子はたくさんいました。

自分も、ハービー・ハンコックチック・コリアのピアノデュオat武道館とかウェザー・リポートとかスタッフのライブを高校の友だちと観に行ってましたから。

でも、そんな大人の音楽より、若い血潮煮えたぎるパンクという音楽を知ってしまうと、それまでの音楽がみんな色褪せてきちゃったんです。

 

 

時代の風雲児、パンクに出会ってしまった!

 

 

今では当たり前のジャンルになったパンクという音楽が日本に渡ってきたころに少年だった頃の記憶に遡ります。

 

そうそう、こんな感じ↓に憧れたのでした。

これもClashですね。

 

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最近はネットで当時の貴重な本場のパンクシーンの写真が見られますよね~

 

とにかく、その頃、パンク的な容姿になるには、髪の毛を立てて、革ジャンを着ないといけない、っていう不文律がありました。

 

髪の毛立てるといっても、モヒカンじゃないんです。

パンク=モヒカンみたいなイメージが定着するのは、ハードコアパンクというジャンルが生まれてから。

イギリスでExploitedとかG.B.Hとかが出てきてからで、80年に入ってからです。

最初はあくまでツンツンで十分パンクでした。

 

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モヒカンのパンクスは80年代です。「写真撮ったら2£寄こせ!」

 

でもって、髪の毛立てるにはどうやるんだろうってなるんですね。

情報もお金もないわけです。

もちろん、町の床屋さんではそんなヘアスタイルは出来ません。

その頃の不良はリーゼント、パンチパーマ全盛の時代。

おしゃれな原宿の前衛的な美容室に行けばやってくれるところもあったんでしょうが、時は1978年、まだまだそんなところは少なくて、髪を立てようにも立て方がわからない。

 

そこで、自分で適当に不揃いに髪の毛を切って、ツンツンするように水で濡らしてみた。

もちろん、立ちません( ;∀;)

自分、柔らかなくせっ毛なもんで。

 

そのうち、パンク友だちからビールで頭を洗った後に、そのままにしておくと良い、な

どといういい加減な情報が入ってきました。

 

それでさっそくやってみた。

 

まあ、少しは近づいてきたけど、やはり時間が経つとさらさらっと爽やかになってしまう。

爽やかは絶対にいけません!

なぜなら、世の中に唾はいて、指立てて歩いていくのがパンクだと信じてましたからね。

それに乾いたビールはちょっと臭い。

ちょっと臭いのはパンクっぽくもあるけど、女の子にモテなくなる(青春なもんでそこは大事)。

 

憧れが先に立ってるので、まずは恰好から入るのが基本、髪の毛をまず立てなくては!とにかく外見。

当たり前と言えばそうなんですが、本当のリアルパンク的生活を模索していたわけではないんですよね。

シド&ナンシーみたいに死にたい!なんて本気で思ったりしないわけですよ。

 

本当にドロップアウトして、パンクに相応しく社会不適格者になっていった友だちもいたけど(出来ないけどそれはそれで格好いい)、周りの子たちも多くは多感な時期のモヤモヤを発露、発散出来ることで、ちょっと尖がってみたいミーハー的パンクスが多かったように思います(違ってたらごめんなさい)。

そういった意味では、今の方がよっぽどパンク的なライフスタイルだな~と思いますよ、実際。

 

 

で、髪の毛を立たせる話でした。

 

 

ちょっとすると、年上のおしゃれなパンクお姉さんから、「あら、そんなのも知らないの~」と新しい情報が入ってきた。

 

銀座のSONY PLAZA(まだ雑貨屋さんというカテゴリーも無かった時代、銀座SONYビル地下のSONY PLAZAは、海外のお菓子や雑誌、コスメなど最先端なものが手に入る唯一のお店なのでした)に行きなさい、と。

パンク少年を目指す前は、映画大好き小僧だったので、ひとりで電車を乗り継いで銀座、有楽町へは映画をよく観に行っていたのです。

なので、SONYビルはちょくちょく遊びに立ち寄っていたので馴染みがあったんですが、気持ちがパンク!となってからは、喧騒が似合う新宿や渋谷が遊び場所に。

 

よく遊んでたくせに、その時は「ケッ、ハイソな銀座かよ」、とイメージ先行の頭でっかちなパンク少年は思ったんですが、ま、とにかく言われるがままに行きました。

 髪の毛立てたい一心で(笑)

 

 

そしたら、ありました、ありました。

お姉さまに教えられて買い求めたのは、DEP!!

 

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これがDEPですね。いまだに覚えてるあの人工的な匂い。プ~~ン。


「買うならピンクのほうがいいわよ。いっぱいつけてドライヤーが基本よ」との仰せの通り、ピンクのDEPを確か800円くらいで買ったんではないでしょうかね。

多分、そのころは日本語表記も無い直輸入品だったと思います。

いまでもあるのかな、と思って検索してみたら、これがあった!

 

こちら超イケメンのイティーさんのブログ。↓

colonlife.jp

 

 

ようやく髪の毛もツンツンになった頃には、革ジャンも手に入り、タイトなブラックジーンズ、尖がったブーツでいっぱしのパンクス決め込んで、新宿ロフトS-KENスタジオ、渋谷屋根裏なんかのGIG(ギグ=ライブですね)によく出かけてましたっけ。

 

 

そうです。東京ロッカーズです。

 

 

ジャパニーズインディーズの草分け、東京ロッカーズ周辺のライブ。

フリクションリザードをはじめ、S-KEN、ミラーズ、Mr.KITE。

それはそれは衝撃的だった。

 

東京ROCKERS

東京ROCKERS

 

 

 

そのうち、欧米と同じくパンクから派生したニューウェーブ系のバンドが東京でもたくさん出てきました。

 

 

東京ニュー・ウェイヴ79

東京ニュー・ウェイヴ79

 

 ↑ これ、タイトルにはニューウェーブとなってますが、実際にはどのバンドも東京ロッカーズのシーンに早くから関わってきたバンドたちですよ。

BOLSHIEだけ生のライブ未体験。観たかったなぁ~。

 

 

本場イギリスでは、77年頃から多くのパンクバンドがインディーズからメジャーレコード会社と契約し作品を発表(そのおかげで国内盤も数多く手に入るようにはなったんだけど)、シーンは隆盛を極めたようにも見えた割りには、業界的に一瞬のうちに消化されてしまい、78年頃には既にレコード会社やメディアはこぞって新しい波(New Wave)を求めた=仕掛けたんですね。

パンクは死んだ、なんて言われてね。

 

 

そこで、次はニューウェーブだ、となるわけです。

 ニューウェーブと呼ばれた音楽(=バンドたち)はパンクのようにこれといった様式があるわけではなく、音楽的にも種々雑多、なんでもニューウェーブのカテゴリーに入れられてました。

ある意味、便利なカテゴリーなんです。

 

 

で、東京のシーンでも、それはもう雨後の筍のように様々なジャンルのバンドが続々と出てきた。

 

 

でも、東京ではまだパンクとニューウェーブは別にはっきりと差別化されたり、住み分けられたりしていなかった。

欧米と違って、現場のシーンに業界的な思惑が入り込んでなかったからでしょうね。

逆に、インディーズというムーブメントがパンクもニューウェーブも飲み込んで、ひとつの文化となっていくような兆しが見え始めた時でした。

 

 

元祖東京ロッカーズの5バンド自体も、もろパンクというよりは、音楽形態自体は様々でしたからね。

元々東京のアンダーグラウンドなシーンで活動していた5つのバンドが集まってライブをシリーズ化した時の名前として付けられたものなので、表現というか態度(=アティチュードといった方がしっくりきますかね)がパンクだったのでしょう。     

 

 

歴史的イベント DRIVE TO 80’Sと神大ELECTRIC CIRCUIT for 80's(付録;金曜娯楽館)

 

 

そんな移り行きつつあるシーンの状況をしっかりと歴史に刻んだのが、有名な新宿ロフト『DRIVE TO 80'S』(1979年8月28日~9月2日)という6日間のイベントでした。

もう40年も昔のことなんですね~。

何か用事があって一日だけ行けなかったけど、全部で五日間は通いつめました。

まだ、フォークとかニューミュージック、SSW系の西海岸ぽい人たちが出演していた新宿ロフトは、このイベントをきっかけにして、すっかりインディーズロックの聖地となったのでした。

もちろん、6日間の連続イベントなんてロフトでは初めてで、普通の日のロッカーズ系のGIGとはまったく違う緊張感というか、何かが始まる予感でいっぱい。

もちろん、お客さんもいっぱい。

地方から来た人も多かったみたい。

あの何とも言えない熱気、みんながトンガってつま先立ちしていたような空気感が懐かしいです~。

 

印象としては、やはりフリクションリザード、アーントサリー、プラスティックス、81/2、P-MODELのライブが強くイメージに残ってます。

そんな中でも、フールズ結成前夜のサイズは断然かっこよかった。

シビレるっていうのはああいう感覚ですね。

未だに脳裏に強く強く焼き付いてます。

ロックンロールって本当にすごいな、と思った瞬間でした。

 

♪ 街を歩いてみろ 俺たちの行くところなんて どこにもないぜ ♪

あぁ~、伊藤耕~ 安らかに(涙)。

 

 

名前は忘れましたが、POP GROUPのジャケットのようなプリミティブな扮装をした土人的パフォーマンスやロフトの天井の配管を伝ってスモークをまき散らしたり、店の外の一般の車の屋根に乗ってポエトリーリーディングアジテーション?)をしていたパフォーマンスグループも強烈な印象を残してくれました。

今でこそアート的パフォーマンスと音楽が一体となったライブはあるけど、当時は新鮮でした。

ああいったイベントは本当にあの時きりでしょうね。

ストリート・キングダムの地引さん、清水さんなどのオーガナイザーの努力と熱意があってこそ、だと思います。

本当にありがとうございます。

 

その後、DRIVE TO 2000も開催されたけど、良い意味で昔を懐かしむ同窓会的でしたね。

そういえば、旧ロフトまでの道すがら、餃子の王将でよくご飯を食べたなあ~

 

当時を知るにはやはりこちらの本ですね ↓

今のストリートやアンダーグラウンドなジャパニーズロックの元祖はまさにここにあります。

ストリート・キングダム―東京ロッカーズと80’sインディーズ・シーン(DVD付)

ストリート・キングダム―東京ロッカーズと80’sインディーズ・シーン(DVD付)

 

 

 

そして、その年の11月17日に 神奈川大学の白楽の講堂で行われた神奈川大学祭 “ELECTRIC CIRCUIT for 80's”』も強烈な印象を残しました(遠目=懐かし目)。

だんだん暮れなずんでいく白楽の商店街を通り抜けて、神大キャンバスへ(この時も中華を食べたのを覚えてます。変なこと思い出すもんですね)。


 

オールナイトロックフェスと言えば、神奈川大学というくらいに、ここの学祭の軽音イベントは昔から力が入っていた。

東の横綱神奈川大学、西の横綱京都大学(京大西部講堂)ですね。

 

そして、この時の出演陣のセレクトのモダンさというか、同時代性にセンスをビシビシと感じました。

タイトルも旧時代のイメージを引き継ぐオールナイトロックフェス(裸のラリーズは見たかったけど)ではなく、ELECTRIC CIRCUIT!

多分、制作陣の学生たちがこんなイメージで付けたんではないかなと勝手に想像を膨らせてましたよ。

 

 


Short Circuit EP (Electric Circus, Manchester, 1978)

(↑これはマンチェスターのエレクトリックサーカスでの名作パンクライブ盤。10インチです。)

 

まじに神奈川大学に入っていれば良かった、と後悔したのを覚えてますよ。

自分の大学の学祭は女性アイドルかなんか呼んだりして、それはそれはダサかったので。

 

で、肝心の出演バンドはというと、パンタ&ハル、ムーンライダース、シーナ&ザ・ロケッツ、リザードフリクションP-MODEL、ダダ、81/2、吉野大作と後退青年、バナナリアンズ、ヒカシュー、メトロ、サイズ,、連続射殺魔、キャラバン?、だったと思います。

メジャーどころ(でも先鋭的)とパンク/ニューウェーブ世代のバンドがうまく一体となった、完璧なセレクトでした。

ムーンライダーズニューウェーブ感覚いっぱいのアルバム「MODERN MUSIC」を出したばっかりで、ピッタリはまってた。

演奏はそれはもう際立って格段にうまかったですね。

そして、大阪の連続射殺魔、呼ぶなんてね~、さすが。

その場を凍り付かせてましたよ。

忘れられないのがバナナリアンズ(ロフトの店員だったさんちゃん率いるバナナリアンズ。ドミニカの地で眠るさんちゃん、安らかに)。

ほのぼのしたワールドミュージック的解釈が実はとっても先端を行っていました。

何回かライブ観たけど、この日が自分は一番良かったですね。

 

で、このイベント、何か他に情報ないかなと思って検索してたら、ありました。

ネットって本当にすごい。

当時のチラシ、はてなダイアリー椅子物語さんよりお借りしました。

日本のアンダーグラウンドシーンを網羅した超ド級のサイト、椅子物語さん、まだの方は一度ぜひご覧ください。

 

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懐かしさにウルウルきます。やはりキャラバンも出てました。

 

大学の講堂でこんなパンクな(意味的にね)出演者で、しかもオールナイト。

もちろんお酒も持ち込んで、かなり楽しませてもらったのを覚えてます。

今でこそ、フェスは当たり前の音楽文化ですが、当時を考えると本当に画期的。

まだ、少しだけ全共闘系の学生運動や学生自治の雰囲気が残っていたから出来たんでしょうね。

トイレにはヌード写真をデフォルメしたポスターがべたべたと貼られ、その横には学生運動で検挙され獄中死した活動家を悼む反対集会の檄チラシ、というコントラストが目に突き刺さりました。

イベントの最後には、講堂の椅子がたくさん壊れて(壊されて)、かなりアナーキーな雰囲気だったなあ。

とにかく、DRIVE TO 80’’S同様、あのイベントも当時でも群を抜いてすごかったです。 

 

 

メディアも今とは違って、幅というか、お金と余裕があったのか、しっかりと時間差なしにストリートの出来事としてブラウン管でも取り上げています。

 

例えば、79年12月にラフォーレ原宿で公開収録された「金曜娯楽館」(日本テレビ)という番組。

もちろん情報ゲットして行きましたよ!

リザードP-MODELプラスチックスヒカシューARB、81/2のメンツに、司会として加藤和彦とともに出演した近田春夫率いるBEEF(ご存知ジューシーフルーツの前身バンドですねって、ご存知無い?)。

寒い中さんざん待たされたけど、タダでこんなメンバーが観れたんで感激でした。

ハルヲフォンの隠れファンだったしね。

でも、白眉はモモヨ(リザード)の歌うテレビを揶揄した「TVマジック」でした。

テレビということでか、いつもより少し大人しめの演奏だったけど、オーラは十分。

81/2の名曲「上海特急」 も良かった。

放送はなんと翌年正月の4日、時間は10時半頃だったような気がします。

お屠蘇気分も抜けない、新年早々の準ゴールデンタイム、お茶の間にニューウェーブの洗礼が切って落とされたのでした~。

ああ、時代がおおらかだったんですね~。

 (因みに、同番組は80年7月に再びニューウェーブ特集として、スタジオライブを放送。この時は、ムーンライダース、プラスティックス、ヒカシュージューシー・フルーツ小川美潮のチャクラでした。youtubeにダイジェスト映像がありましたので貼っておきます。)

 

www.youtube.com

 

 

ここで、もう一度、東京ロッカーズ以外の、当時のパンク/ニューウェーブと言われたバンドを思い返していきたいなと思います。

 

 

ヒカシューP-MODEL、81/2、プラスチックス、スキスキスィッチなどのテクノポップ系と言われるバンド。

 

ストーンズの不良版的なロックンロールをベースにしたタイプ(正確ではないかもですが)のSEX、スピード、前にも書いたサイズ、ペイン、自殺(今思うとすごいバンド名)など。

このタイプには短髪ではなく長髪の人もいましたね。

その後のストリートロックシーンでも重要なアーティストを輩出してるカテゴリーではないかと。

 

あと、80年代のゴシックパンク・ポジティブパンクブームを牽引し、日本に白塗りバンドの先駆をもたらしたジュネ率いるマリア023(じゃがたらビブラストーンのOTOさんもクネクネと踊るキーボードで在籍)~オートモッドも異彩を放っていました。

 

表現主義的、アヴァンギャルドな要素の突然段ボール、水玉消防団、アーントサリー、ノンバンド、フリージャズ的要素もあったグンジョーガクレヨンとか、電子音楽ファンクのEP-4(渋谷駅の切符売り場にテロ的に貼られまくっていた同日3都市ライブ『EP-4 5.21』のシール、懐かしいなあ。普通の人はまったく意味がわからなかったはず)など、枚挙にいとまがありません。

 

 他には、神大にも出たバナナリアンズとか女性バンドのゼルダなどでしょうか。

 

 

その頃は、どんなライブハウス、GIGに行っても新しい発見や出会いがあって、本当に音楽の生体験としてはどんな海外のアーティストのライブよりエキサイティングな時代でした。

レコードもゴジラレコード、PASSレコード、テレグラフなど、たくさん買い漁りました。

 

スターターとしてパンクの時代を突っ走っていった東京ロッカーズ(ほぼ一年くらいはこの名前を使ってたような)から、ニューウェーブが盛んとなった時期まではそれなりに時間があるんですが、それでも2年ほど。

本場アメリカやイギリス、そして同じく重要なドイツにおいても、多少のリードタイムはあったにせよ、パンクからニューウェーブへの移行期は同じようなスピード感と経過を辿ったと思います。

イギリスの情報(仕掛けられたものではあったけど)が先行して、すぐに拡がるというのが基本だったんじゃないかなあ。

 

 

この頃、聴き漁った海外のニューウェーブバンドやそのライブ、日本のバンドのそれぞれについては、また別稿で取り上げられたらと思います。

 

 

パンク少年はその後、、、

 

 

そして、80年代に入り、ニューウェーブは細かくカテゴライズされていき、MTV(日本ではベストヒットUSAですね)などを経てお茶の間にも進出し、音楽シーンでブームを迎えます。

パンク同様、商業的にもビジネスの枠にどんどん取り込まれていき、アンダーグラウンド表現者としての役割を急速に失っていくのでした。

日本ではその流れに合わせるかの如く、いかすバンド天国の放送なども始まり、本格的なインディーズブームが到来するんですね。

 

 

そうなると、自分の熱も一気に冷めていってしまうのでした。

テレビ的に、世間的に流行ると飽きてしまう、という性格を認識したのもこの頃です。

ま、ただのひねくれモンとも言えますが、中学生のころからニューミュージックマガジンを欠かさず読んでいたので、音楽的にはトレンドのチョイ先をいつも見ていたような気がします。

 

暴力沙汰や汚物まき散らしたりのライブが増えていったこともあって、既にライブハウスには自分の居場所を見つけられなくなり、パンクやニューウェーブは聴きつつもロフトや屋根裏からは足が遠のいていきました。

 

 

パンクを聴きつつも敬愛し続けていた細野晴臣さんがイエローマジックオーケストラを始めて、イエローマジックバンドの横浜中華街やPIT INNには行けなかったけど、本格的なデビューコンサートの新宿紀伊国屋ホールでのAlfaレコードのライブでYMOを初体験したのもこのころです。

78年のYMO体験前に、クラフトワークアウトバーン以降はずっと聴いてたので、細野さんの方向性にとてもシンパシー感じました。

まさかその時の音源が聴けるようになるとは思ってもみませんでしたが↓

 

LIVE AT KINOKUNIYA-HALL 1978

LIVE AT KINOKUNIYA-HALL 1978

 

 

 

本当のパンクスとして社会不適格者になり切れなかった自分は、実はもうその頃には、ツンツンのパンクファッションもやめちゃってまして、懐かしきセントラルアパートにあった「東倫」~「ロンドンドリーミング」や赤富士でのモッズルックを経て、すっかりおしゃれに目覚めてしまったのでした。

あんな馬鹿にしてた銀座や原宿辺りの直営店などでDCブランドの服をバイトで貯めたお金でチョコチョコ買ったり、POPYE読んだりするシティーボーイ気取りにちゃっかり乗り換えていたのでした。

ほんと節操がないですね~。

 

 

そして、時代は80年代に入ります、、、。

 

 

若く青い時代、感性豊かなギリギリ少年と呼べる時期にパンクの現場に居合わせることが出来たことは、結局その後の生き方に大きく影響を与え、ささやかな自由や自主の精神、社会の矛盾に目を向けることや多少外れても何とかなるさ的な生き方を育むのに本当に役立ったのでした。

 

 

 結局、イマココにあるのもその延長線上。

おかげさまの世の中です。

導いていただいた、目を開かせてくれた、そして何より楽しませ躍らせてくれた、当時のアーティスト、表現者、友人の方々に心より感謝を送ります。

いくらお金があっても出来ない貴重な体験の数々を本当にありがとうございました。

 

 

懐かしさから色々思い出し過ぎて、長文駄文となってしまいました。

ここまで戯言にお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

年代を追っての音楽体験忘備録、次は何を書きましょうか。